Eterinty
第１章 出逢い
「はぁ…はぁ……っ」
どのくらい走ってきたのだろう、草や枝に構わず走ったせいで、所々切れている脚が痛い。
（でも……まだ安心は出来ない……）
キラは額から落ちる汗を拭うと、また走りだした。
──事故で家族を亡くし、孤児になったキラが領主であるセイラン家に引き取られたのは十歳の時。使用人として働くキラを、当主であるウナトは何かにつけて体罰を加えるようになった。
恐怖に怯える日々も耐えるしかない。それしか生きていく方法がキラには残されていなかったのだ。
『キラ、ちょっとおいで』
『あ、はい……』
領主の子息であるユウナが声をかけてきたのは、ウナトが出かけた今朝のことだった。
『や…っ、何するんですかっ？』
『君のことは前からかわいいと思っていたんだ。僕の言うことをきけば、父上に言って扱いもよくしてあげるからさぁ』
『い、嫌っ、やめて下さい…っ、あ──』
思わず振り払った腕がユウナに当たり、彼は頭を柱に打ちつけて。衝撃で気絶してしまったユウナを前にし、キラは恐くなって屋敷を飛び出してしまった。
使用人が勝手に屋敷を抜け出したらどんなことになるのかもわかっていた。しかも事故であれ、子息にけがを負わせてしまったとなれば、間違いなく殺される──
「ふ…う…っ……」
追手に捕まらないよう森の中に入ったのは良かったけれど、自分がどこにいるのかもわからなくなって。脚を止めたとたん、一気に振りかかってくる恐怖と疲れに、キラは草むらに倒れるように膝をついた。
（どうせ逃げたところで行く場所なんてないのに……）
目の前に広がる木々が涙で滲んでいく。ぼやけたその視界の先にキラは石の塊を見つけた。
「…お墓……？」
そろりと立ち上がって近寄れば、それは小さな墓石だった。
座ってそこに刻まれた名前を指でなぞる。女性の名前だ。この人はここで死んだのだろか。
「僕も、ここで死ぬのかな……」
墓石を前にぽつりと呟く。こんな深い森の中でこれを見つけたのも運命かもしれない。
キラは墓石にもたれかかるようにして泣き出した。
──ガサッ
「っ！」
少し離れた所から草を掻き分ける音がする。そして続けて聞こえてきたのは馬の鳴き声。
（もしかして追手が──？）
隠れなければと慌てるが、恐怖に脚がすくんでしまって立ち上がることが出来ない。
（もう駄目……っ）
次第に近づいてくる蹄が地を踏む音に、キラは墓石に蹲りながらぎゅっと目を瞑った。
「──誰かいるのか？」
人の声とともに馬の脚音が止まる。
びくっとして身を硬くするものの、一向に近づいてこない人物に、キラは恐る恐る顔を上げた。
（──あ……）
凛とした姿に、藍色の髪。そして深いエメラルドの瞳。
その瞬間、森のざわめきも小鳥の囀りも聞こえなくなった気がして。キラは大きく目を見開いたまま、その人物に釘付けになっていた。
（誰……？）
彼もキラに気をとられたように動きを止めていたが、ひらりと馬から降りるとゆっくり傍に歩み寄ってくる。
「……君……こんな所でどうしたんだ？」
「っ……！」
近づいてくる彼の腰に剣を収めた鞘が付いているのが見えて、キラの身体に緊張が走った。依然としてすくんだままの脚をなんとかしようとするけれど、今はまだ墓石にしがみつくことしかできない。
「大丈夫だ、何もしないから逃げなくていい」
「え……」
彼はキラの表情から悟ったのか、腰から鞘を外して地面に置く。そして墓石の傍らで小さくなっているキラの前に屈んだ。
「……泣いている……のか？」
「っ……」
キラの頬に伝う涙を見て、彼は心配そうに問う。手から漆黒の手袋を外すと、その頬に指先を伸ばしてきた。
「あ……僕……」
涙を拭うように触れる指は温かくて。キラは何故かその温もりに安堵した。そして。
「っ……！おい……っ」
緊張の糸が切れたかのように、体力的にも精神的にも限界だったキラはそのまま気を失った。
◇◇◇
「──ん……」
次に目を開けたときは見たことがない部屋のベッドの上だった。
（……僕……どうしたんだっけ…）
朦朧とする頭で辺りを見渡し、もとの屋敷ではないのを確認してキラは安堵の息をつく。
（助けて…くれたのかな……）
森で出会ったあの人──とても綺麗な顔立ちの、身なりも高貴なものを纏った人だった。もしかして位の高い人かもしれない。
「…どうしよ……」
自分のような人間がいて良い場所ではないかもしれないと思うと、キラの内で焦りが広がる。
その時、
「──世話なら私が致しますから……！」
「いや、よい。俺が見つけたのだ」
廊下から話し声が聞こえたかと思うと扉が開いた。森で会った彼が入ってくる。
「あ……」
「気がついたのか」
彼はキラを見ると微笑み、ベッドに歩み寄ってきた。
「大丈夫か？」
「あ、はい……あの、ここは……」
起き上がろうとするキラに彼が手を貸そうとすると、おろおろした中年の男性が慌てて駆け寄ってくる。
「ですから世話ならこちらで致しますから……皇子！やめて下さい！」
「──え……？」
（皇子……？今、皇子って……言った……？）
人物を指すその言葉にキラの瞬きが止まった。
「俺がみると言っただろ？アーサーはもう下がれ！」
「しかし……」
「俺が一度言い出したら聞かないのはわかっているだろ？」
「はぁ…では、何かあればお呼びください」
アーサーと呼ばれたその人物はしぶしぶと部屋を出ていった。
「……すまないな、うるさいのがいて……どうした？」
驚いたまま丸くなっていたキラの瞳を彼が覗いてくる。キラは忘れていた瞬きをぱちぱちと繰り返しだした。
「あ、あのっ……皇子さまなの……っ、じゃなくて、なんですか……？」
「ぷっ……いいよ、そんな堅っ苦しくなくて。どうせ俺たちしかいないんだし」
慌てるキラに彼は笑う。
「俺はアスラン・ザラ。君は？」
「っ！アスラン・ザラって……まさか第一皇子の……っ」
その名前はキラも知っていた。だから余計に驚いて顔を引きつらせて。
「あのっ、キラです、キラ・ヤマトと申します」
先ほどから失礼なことばかりしている自分にますます慌てながら頭を下げた。
「だから普通でいいよ。キラ、か……」
名前がわかったことで、彼──アスランはほっとしたように微笑む。
「あの……僕……」
「勝手にすまないな。突然倒れたものだから、とりあえず連れて帰ってきたんだ」
皇子が帰ってきたというのだから、ここは城なのだろう。そうなれば、やはり自分のような者がいては良い場所ではない。キラは急いでベッドから出ようとしたが、アスランに止められた。
「熱があるんだ。だから寝ていたほうがいい」
「え……でも……」
「ここには俺の側近のものしか来ないから大丈夫だ。今は休め」
そう言われ、キラは申し訳なく思いながらベッドの中に戻った。そっと肩にかけられるふとんがふわりと温かくて。熱のせいなのだろうか、目頭が熱い。
「っ……」
「キラ……？」
こんな風に人に優しくしてもらったのは何年ぶりなのだろう……。今までのことが頭の中を巡り、それがまた涙になって溢れてきてしまった。
「っ……ふぇ……く……」
「………」
黙ったまま、キラの髪に触れる大きな手。そっと撫でるその手に、キラの頬にまた涙が伝いだす。
「う……ごめん……なさい……」
こんな風に皇子の前で泣いてしまう自分が情けない。泣き声を押し殺そうと、顔を枕に押し付けた。
「キラ、寝付くまでこうしているから……今は休め」
そんなキラをなだめるように、何度も髪を撫でるその手が心地良くて。なんだかとても安心する。
キラは次第に眠りに堕ちていった。
◇◇◇
窓から差し込む日の光にキラは目を覚ました。身体が楽になっている気がして、ゆっくりとベッドから降りる。ふと見ると脚に包帯が巻かれていた。
（そういえばけがしてたんだっけ……）
すっかり忘れていたことに、キラは目を細める。
「──キラ、起きていたのか」
「あ……」
ちょうどその時、扉を開けてアスランが姿を現した。
「あ、あの……昨日はすみませんでした」
「謝らなくていいよ。それより起きていて大丈夫なのか？」
「はい」
近づいてくる彼に返事をすると、アスランはさりげなくキラの額に手を当てる。肌に触れるその感覚にキラは驚いて小さく跳ねた。
「……あぁ、熱は下がったようだな」
昨夜のように触れた掌が心地良い。それに何故か鼓動が高鳴ってしまうのは、彼が皇子だからなのか──キラは思わず目を瞑った。
「でもまだ無理はしないほうがいい」
「え……あっ」
彼の手によってふわりと浮く身体。抱えられてしまっている自分の体が焦りと恥ずかしさで熱くなる。
「だ、大丈夫ですっ、自分で歩けますから……！」
「気にするな、脚もけがしているんだ。もう一度消毒もしたほうがいいな」
「そんな……自分でできます……！」
抱えられる腕の中、皇子相手に暴れるわけにもいかない。
結局キラはベッドに座らされて、消毒してくれるその姿をじっと見ていた。皇子にこんなことをさせてしまって、どうしたらいいのかキラはわからなくなる。
「……すみません……」
か細い声で呟くと、アスランが手を止めてキラを見上げた。
「キラ、謝るんじゃなくて……」
「あ……！ありがとう……」
「そうだろ？」
そう微笑むアスランに、キラもほっとして笑みを溢す。
「……やっと笑ったな」
「え？」
「ずっと不安そうな顔していたから…」
心配そうに見つめてくるその翡翠の瞳に、また謝りの言葉が出そうになってキラは息を飲み込んだ。
「こんなこと聞いてすまないと思うけど……」
少しの間を開けたあと、躊躇いながらアスランが口を開く。
「おまえがあの森にいたのと……身体に残っている痕と関係があるのか？」
「っ……！」
「気を失っているお前を手当てしようとした時、偶然見てしまって……」
アスランの口から出た言葉にキラの身体がビクッと震えた。
（──見られてた………）
キラの身体にはウナトから受けた体罰の痕が消えずに残っている。蹴られて痣になっているところもあれば、鞭を振るわれたところもあって。
自分では気にしないようにするしかなかった。だけど、人に──しかも彼に見られてしまったことが酷く辛い。
「………」
何も言えず俯いていると、膝の上で震えてしまっていたキラの手にアスランの手が触れた。
「キラ、すまなかった。これ以上聞きはしない。ただ、ここはもう……」
アスランがそう言いかけた時、扉を叩く音がした。入室を伺う声に彼が返事をする。
「失礼します」
肩より少し長めのブロンドの髪を揺らしながら一人の青年が入ってきた。
「キラ、レイだ。俺の側近の一人で、警備隊長を務めている」
レイと呼ばれたその彼は、キラに向かって会釈をしたあと、
「例の件であの付近で調査をしていたのですが、セイラン家からこのようものが……」
と、一枚の紙をアスランに差し出した。
「──ッ！」
そこにはユウナに無礼を働いたものとして、キラの名前と、その行方を探すような内容が書き綴られていた。
（そんな……！）
あまりに大袈裟に書かれたその内容に、キラの全身がかたかたと震えだす。
「書かれている特徴からいって、そこにいる少年のことだと……」
「キラ……お前、セイラン家にいたのか？」
アスランは驚きの表情を浮かべてキラに目をやった。
「ち、違うんですっ、僕はそんなつもりで……」
あの時のことを弁解しながらキラは首を振る。
「ユウナ様が……いきなり……僕を……だから……！」
話すうち、ベッドに押し倒され、上に圧し掛かってきたあの重みが蘇ってきて──
「い、いやぁっ！」
「キラっ？」
目の前が真っ暗になる。キラは思い出した恐怖に怯えて悲鳴を上げた。
「キラ！キラ、落ち着け！」
「いやっ、やめてぇっ」
アスランの声も耳に入らない。ただ怖くて泣き叫ぶ。
「──キラッ！」
「っ……！」
身体を包み込まれるような圧迫感と、大きく呼ばれる自分の名前に現実に戻されて。繋ぎ止めるかのように身体に回されたアスランの腕にキラは我に返った。
「キラ……大丈夫、大丈夫だから…」
「あ……ぼ……く……」
耳元でまじないのように囁かれる言葉に、目の前を覆っていた恐怖がすっと消えていく。
「う……ふぇ……っ」
強く抱きしめられる温かい腕の中でキラはまた泣きだした。
「──実はセイラン家が我が国の機密を漏洩しているという情報があって調べさせていたんだ」
レイが入れたお茶を飲んで、キラが落ち着きを取り戻した頃、アスランが静かに話をしだした。
「だが向こうもこの国にとって有力者。さすがに証拠がないことにはな。だがその証拠がなかなか掴めなくて……」
「証拠……？」
その言葉にキラはある事を思い出した。
屋敷の物置になっている部屋の掃除を言い渡され、埃にまみれながら床を磨いていた時のこと。途中入ってきたウナトは物陰に隠れるようになっていたキラには気づかず、誰かと怪しげな話をしだしたことがあった。
それがばれた時、キラは体罰を加えられながら酷く叱られて。体罰が続くようになったのもあれからだったように思う。
「僕……わかるかもしれません、その証拠を隠しているところ……前にウナト様が話していたのを聞いてしまったことがあって……」
「なら彼に行って頂くのが一番良いですね。城からの使いと知れば、怪しまれて違う場所に隠されてしまう恐れがあります」
落ち着き払って話すレイにアスランが慌てて立ち上がる。
「しかし、それではキラが……！」
「これはチャンスなのかもしれません。手配書まで配って探しているのは、もしかしたらこの一件が絡んでいるのでは、と私は思うのですが」
「レイ……だが……」
レイがちらりと自分を見たのに気がつき、キラは目を逸らすように俯いた。
確かにまたあそこに戻るのは辛い。でも、この気持ちはなんなのだろう。大丈夫だと言ってくれたこの人の為に何かしたいと思う。こんな自分でも出来ることがあるなら──
「僕は大丈夫です！僕で役にたてるのなら……だから……！」
ぎゅっと拳を握り、必死になってアスランに言う。そんなキラを見て、アスランは一度目を瞑って考え込んでから顔を上げた。
「──なら俺もついていく」
「皇子！それは……！」
レイが慌てたように身を乗り出す。
「なにかあってからでは困ります。皇子はどうか自重なさってください！」
「これ以上キラを危険な目に合わせたくない。キラを捕らえた者として行けば不信には思わないだろ？」
自信に満ちたアスランの口振りに、レイは諦めたように息をいた。
「まったく貴方という方は……仕方ありません、私もお供いたします」
そう支度を整えてきますと彼は部屋を出ていく。
「……あの…本当に……いいんですか？」
レイがいなくなったあと、キラはおずおずと口を開いた。
「それは俺のセリフだ。こっちこそお前を巻き込んでしまって悪かったな」
「そんな……僕は平気です」
申し訳なさそうに自分を見つめるアスランに笑ってみせる。けれど言葉とは反対に手は震えていて。
「キラ……」
それに気づいたアスランの大きな掌が震える手を覆う。
「キラは俺が守るよ」
「え……」
「だからもう怯えなくていい」
「皇子……」
真っ直ぐ見つめる翡翠の瞳に、その言葉が身体に染み渡っていく気がした。
この人の言葉は信じられる。だから。
「──はい」
頷いたその時には、不思議と手の震えも治まっていた。
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